片付けができないきれい好きの話
片付けができない。
例えば部屋を片付けようと思う。これはここに。それはそこに。終わって改めて見てみたら、物が床から違うところに移動しただけだ。自分に呆れる。
ところが私は掃除好きだ。潔癖性と名乗れば潔癖性の皆様に失礼に当たる程度の掃除好きである。休日の在宅中のほとんどは掃除に時間を費やしている。
とくに、風呂場は時間がかかる。カビ防止洗剤やパイプユニッシュなど、浸け置きしなければならないので分単位での行動が必要だ。そして眼鏡も曇る。
今日はうみへびが家に来た。うみへびとは構い倒せば離れていき、放っておけば構え構えと近付いてくる、言わば天の邪鬼野郎である。私は本日の掃除のノルマが達成されていなかったため「しばしまたれよ」と居間に残して風呂掃除に勤しんだ。
一時間しても終わらないのを不審に思ったのかしばらく掃除風景をのぞかれていたようだった。
一心不乱に天井まで磨き上げる私を見て
「取り憑かれている…」
こう漏らすのであった。
違うのだ。私は取り憑かれてなんかいない。潔癖性でもない。私は掃除が好き、それだけなのだ。
第一、汚れているものが心底いやだ、許せない、とかそう言うことではない。掃除をする、汚れが落ちる。その行為自体がすきなのだ。
これを掃除好きと言わないでなんと表せばいいのか。
ただ病的な掃除好きかはさておき、そんなことは何の意味も成さない。
何故ならば、いくら掃除をして衛生面では部屋がきれいになろうとも、部屋が片付いていなければそれはただの豚小屋であるからだ。
豚の方がまだきれいな部屋に住んでいることだろう。
(そうだ、今こそ近藤麻理恵の“人生がときめく片づけの魔法”を熟読しよう)
熟読したところで部屋が片付くかは、また別のお話である。